中村 司のコレクション~景粛宮 5 著名人の書 |
中村天風師の自筆の額 落款は「統一荘主」 昭和5年 |
「哲人・中村天風」といえば、昭和日本の精神的柱として有名。先日、中村天風さんの色紙が一枚7万円以上で取引きされていて驚きました。特にネットの世界で有名みたいですね。 かなり人気があるのでしょうか。 |
安岡正篤・師の書 (元号「平成」の考案者 歴代首相の指南役) |
「世事給二遺素心 紫崖丹墾是知音 小閑偶作秋山侶 幽 然孤奥深」 昭和12年 立石寺にて |
大塩平八郎 (大塩 後素/こうそ)自筆 |
後素 (こうそ)の号 |
江戸後期の儒学者(陽明学者)・大坂町奉行所
与力。 |
中村天風師 自筆画 |
中村天風師 自筆画の瓢箪(ひょうたん)図。 落款は「天風」 (中村司蔵) |
田中角栄 首相当時 参院選にて |
こちらは蔵書ではなく、ただ飾っているだけです。 田中角栄さんが「今太閤」と呼ばれた当時を感じさせます。 |
公爵 正二位 二条 基弘 (にじょうもとひろ) |
最後の関白・人臣最後の摂政。二条斉敬(にじょうなりゆき)の養嗣子 二条 基弘は、安政6年(1859年)生~ 昭和3年(1928年))没、明治の華族。宮中顧問官、正二位 勲二等 公爵となる。九条尚忠の8男で、二条斉敬の養子となる。明治23年9月から大正9年1月まで貴族院議員を務める。書を能くした。 二条斉敬について ●摂政、関白。 ●左大臣二条斉信の次男。1825(文政7)年に従五位上に叙任。以後、位階累進を重ねるが、1859(安政6)年、折からの安政の大獄により幕府に蟄居を命じられる。しかし程なくして赦免となり、朝政に復帰。専ら公武合体派として朝幕間を奔走した。 ●1863(文久3)年8月18日の政変では朝廷より尊攘派公卿を放逐し、同年 関白に叙任。引き続き朝幕間の周旋に砕身した。 ●1866(慶応2)年12月の孝明崩御に続く、翌年正月の明治天皇即位に当たっては摂政職。しかし、同年12月の王政復古の大号令により摂関職が廃止されたため、摂政を辞任した。 ●1878(明治11)年、63歳で没。 |
吉田松陰の自筆掛け軸 |
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長州藩校・明倫館の兵学教授ののち、松下村塾(しょうかそんじゅく)を主宰し明治維新へ導いたとされる吉田松蔭。伊藤博文、山県有朋、木戸孝允、高杉晋作など明治維新の功労者を輩出。 幼時の苗字は杉。養子となり、吉田矩方(のりかた)。本姓は藤原。号は松蔭の他「二十一回猛士」。通称は「寅次郎」 「二十一回」(二十一回猛士) 「藤寅」(本姓の藤原寅次郎) 「吉田矩方」 (落款) を記す貴重な書 |
吉田松陰の自筆画 (4枚) |
松陰さんは墨画を好んで描いたようです。 |
幕末の長州藩士 高杉晋作 筆 号 「東行」 |
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吉田松陰門下の秀才・高杉晋作。奇兵隊を指揮し、数に勝る幕府軍を圧倒する。 倒幕の足がかりを作るが肺結核にて27年8ヶ月の命を閉じる。 号「東行」は「西へ行く人を慕いて東行く我心をば神や知るらん」との歌に由来。 |
第3代 総理大臣 山縣有朋 元師 |
号「含雪(がんせつ)」 長州藩出身 公爵 東京 目白にある椿山荘(ちんざんそう)の所有者であった。 |
幕末の英雄 勝 海舟 一行書と二行書の2作品 |
坂本龍馬の師匠でもある勝義邦(かつよしくに) 薩摩藩・西郷隆盛と会談し江戸城を無血開城へ導く 上は「海舟居士」と「勝義邦」の落款 号「海舟」 下は「海舟」と「物部義邦」の落款 号「海舟」 |
西郷 隆盛 (西郷隆永 号・南州)4行書(左) 3行書(右)の2作品 |
本名「隆永」は珍しいため詳細な写真を追加しました |
左・黄色 4行書 (「藤氏隆永」「南州」の落款) 号・南州 なんしゅう 右・青色 3行書 (「藤氏隆盛」「南州」の落款) 「総裁局顧問専任」として 実質の第2代宰相。 (初代は木戸孝允、3代は大久保利通) 幕臣・勝海舟と会談し、江戸城を無血開城に導く。新政府を主導するも、西南戦争を起こし、自害する。 西郷隆盛の本名は西郷隆永(たかなが)。「隆盛」という名前はもともと西郷さんの父親の名前。 通称の吉之助(きちのすけ)で呼ばれることが多かったため、友人ですら本名を忘れていた。明治新政府より官位を贈られる際、手違いにより父親の名前「隆盛」とされてしまったことから、以後「隆盛」と名乗るようになった。おおらかな西郷さんらしいエピソード。 l |
新井白石・自筆 号 錦屏(きんぺい)山人(さんじん) |
新井白石・自筆「折たく柴の記」大槻玄沢旧所蔵 |
天海 大僧正の旧蔵 「法華経」の「薬草喩(やくそうゆ)品(ほん)」 |
天海・大僧正の旧蔵 21枚目の断片 この「法華経」は江戸幕府を開いた徳川家康公のブレーンとして江戸の都市計画に尽力した天海・大僧正の旧蔵。「法華経」大巻の最終に「天海蔵」の蔵印がある。 (108歳にて没後、朝廷より慈眼大師の称号を贈られる) 度重なる江戸の大火により散逸し、150年を経て蘭学医 杉田玄白・大槻玄沢の手に渡ったもの。 筆者は特定されていないが経蔵でなく、天海・大僧正が個人的に所有していたことから皇室関係者か武家の高位と推定される。 「法華経」の「薬草喩(やくそうゆ)品(ほん)」は、人間を薬草になぞらえており、人間は誰もが心の奥底に仏のいのち(仏性)を持つとの仏教の人間観を「薬草」という名であらわしているという。 天海大僧正 旧蔵の「法華経・薬草喩品」の断片は、21葉に分けられており、手前の20点目は、日本医師会の会長だった故・武見太郎氏(1975年 世界医師会会長。 武見敬三・厚生労働副大臣の父)が所蔵。 シーボルトと大槻玄沢は面識があり、日本医師会がシーボルトに関する記念展示を行った縁で、20点目が当時の日本医師会会長・武見太郎氏の下に寄せられたとされる。 最終21枚目の断片はさらに貴重とされ、裏面に杉田玄白の落款が押されている。 寄贈により、中村司蔵となる。 + + + 続きの「受記品(じゅきほん)」の「受記」とは「仏陀が弟子に与えた預言」であり、「あなたももうすぐ仏になれますよ」という宣言の意味。 シーボルトは著書「江戸参府紀行」で、大槻玄沢(仙台藩医)と桂川甫周(かつらがわほしゅう 将軍家・奥医師)に言及している。 + + + この「法華経・薬草喩本」はアメリカの南カリフォルニア大学 薬学部などで展示。 裏面に杉田玄白の落款である「玄白」が押捺してあります。 極めて薄く肉眼では見えませんが、米国コロンビア大学において原本裏面の画像感度を上げて処理し、肉眼でも見える画像となりました。 |
頼山陽(らい さんよう) 墨画・自筆 |
江戸後期 広島の学者。歴史書「日本外史」や以下に挙げる「日本政記」を著す。 幕末の勤皇志士たちのバイブルとされた。 本名は襄(のぼる) 字は子成 通称 は久太郎 号に 三十六峰外史。 山陽外史 下は 「頼 襄」 (らい のぼる)と署名 |
野村素軒(のむらそけん) 墨竹画 |
長州藩校・明倫館館長 長州藩士 貴族院議員。明治の三筆とされる |
伊藤博文 自筆短冊 |
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